優生保護法が実施された 当時の実態
優生保護法による強制不妊手術により、子を儲けることのできない体となってしまった方々が全国で訴訟を起こす動きが出てきていることは、皆様の耳にも入ってきている事と思います。
今、私達の感覚で言えば「どうしてそんなことを」「差別的だ」と憤りを感じてしまうものですが、当時はどのような空気だったのでしょう。
優生保護法の歴史
この優生保護法が初めて誕生したのは、1907年のアメリカです。
優生思想と聞くとナチスを想像する人が極めて多いですが、実は自由の国アメリカで誕生したのです。
しかも対象者の幅は広く、梅毒患者すらこの優生保護法の下で不妊手術を受けさせられたという背景があります。
優生思想は実は世界的なブームだった
1900年代においては、優生学は世界的なブームでした。そのブームをさらに加速させたのが、ナチスです。
一般的には「優生学=ナチス」というイメージですが、実はそうではなくポピュリズム的な政策として取り入れたのが優生思想だったのです。
優れた人類の遺伝子を残すという思想は、世界中で支持されていたのでした。
一方の日本では
日本の場合、明治憲法では「堕胎の罪」が明記されており、中絶や不妊手術は刑事罰の対象でした。
1940年まで中絶は認められていませんでしたが、親の望まぬ妊娠や堕胎しないと母体に死の危険がある場合などについては認められるようになります。
そして戦後、状況は大きく変わっていきます。
障害者と優生保護法
この戦後に誕生した優生保護法は、「障害者が性的暴行を行った場合」に焦点を置いて話し合われたという背景があります。
例えば「もし障害者が強姦をし母体が望まぬ妊娠をしてしまったらどうするのか。」、あるいは「障害者同士が性行為を行い妊娠してしまったらどうするのか」等といった、差別心と言うより恐怖心から優生保護法が組み立てられていったとも言えるのです。
グローバリズム要素
優生保護法は、上記とは全く違う視点から見ることも出来ます。
そもそも、最大派閥で保守派の政党である日本自由党は堕胎自体に否定的な考えを持つものが多かったのです。
ではどこが立案したのかと言うと、左派政党である日本社会党です。
日本社会党は母体の安全性を確保を訴えつつグローバルブームに乗るために、また日本自由党は、フェミニズム的要素を取り込むことでさらに支持を集めるために優生保護法を成立させていったともいえます。
優生保護法による被害者たち
テレビなどで、この優生保護法による不妊手術を受けた人たちを見ると、重度の障害をもった人たちばかりではないということが分かります。
軽い精神障害の方も被害に遭われており、彼らは普通にインタビューを受け、話すことが出来る普通の人達です。そんな彼らすら被害に遭っていたのです。
それも、ほとんどの人達がどのような手術をされるのか知らされずに受けさせられたと言います。
当時は世界的にも支持された考え方で、日本でもその思想に乗っかりグローバル社会の一員となりたいと考えていた人たちがいたことは事実です。
しかし、その裏では障害者に対する恐怖心もあったのです。
「国の政策ミスだ」と言ってしまえばそこまでですが、「世界的なブーム」と「未知への恐怖」が歪に合致してしまった結果なのではないかと、私は思います。
「海外では当たり前のことだ」という空気に流されるという傾向にある人は今も多いですが、それが正しいのかどうかを、自分の目で見て判断することが出来なければ、今後も同じ悲劇が起こってしまうという可能性は十分にあると言うことを、決して忘れてはなりません。