「やめてくださーーいっっ!!!」
「〇〇を持って行かないでくださーーいっっ!!!」
窓から頻繁に大声を出して叫ぶ、統合失調症のお年寄りがいる。
その人は一人暮らし。幻覚・幻聴がひどいのだとか。
叫び声が聞こえる度に近隣や民生委員、通報を受けた警察が手を焼いている。
遠方に住んでいる家族は何をしてるんだろう。介護に疲れたのかもしれない。
その人は十分生きた。もう十分だ。
薬浸りで仕方なく無理やり生かされることが、虐待に思える。
安らかに眠らせてあげることは何故「自殺ほう助」なのだろうか。
今日は、障害をもつ当事者が一度は望んだことがある「安楽死」について、綴ってみようと思います。
なぜ日本では安楽死制度が認可されないのか
不治の病や末期ガンなど、最早治療の施しようが無い状態に陥ってしまうことは、誰にでも起こり得ることです。
また、そうでなくとも人生に展望が持てず「生」そのもの希望が持てないという人も少なからずいます。
いずれにしろ、「もう生きることで苦しみたくない」となった時に、今度は「生」とは真逆の「死」に興味が出てくるということは、誰でも想像できるかと思います。
しかし、死ぬといっても簡単なことではありません。
自殺を考えると恐ろしいと思われるでしょうし、病に伏している状態であれば、それすらかないません。
そこで注目されているのが「安楽死」です。
文字通り苦しまずに死ぬことができるという方法は、病に苦しむ人などにとっては、その苦しみから逃れることの出来る唯一の希望というわけです。
主にガスや薬物を用いて行われることが推定されますが、より楽な死に方が開発されるかもしれません。
ただ、日本人の7割が安楽死に賛成しているという現実において、どういうわけか未だ認可されていません。
いったい、何故なのでしょうか。
今回は、様々な視点から「安楽死」について見ていこうと思います。
宗教的問題
安楽死を考える上で最初に立ちはだかるのが、宗教的な問題です。
日本人の7割が賛成していると言っても、では実際に、何処かの政党が「我々は今回の選挙で、安楽死を勝ち取るために頑張りますっ!!」と訴えているところを想像してみてください。
おそらく、その政党を支持しようという人は少ないでしょう。
なぜならば、宗教的な価値観が染み付いているためです。
安楽死はどのような死なのかを考えてみると、一般的には「自殺」が最も近いのではないでしょうか。
不謹慎に聞こえるかも知れませんが、自分から死を望むわけですから自殺と類似性があるのは仕方のないことです。
この自殺を許容する宗教は、少なくとも私が知る限りでは存在しないかと思います。
例えば、仏教においては自殺はタブーです。
なぜかと言うと、「地獄に落ちるから…」というわけではありません。
仏教における輪廻転生の考えに「悪行を行うと来世でも同じようなことをする」というようなものがあります。
この悪行を自殺に変換して考えると「自殺すると来世でも同じように自殺をするぞ。だから自殺はしてはいけない。」となるわけです。
ここまで細かく知らなくても、幼い頃にお坊さんの説法などを聞く機会があったならば、なんとなく「自殺はいけないことだ」という考えに至ると思います。
特に、病気などで自身の死が近くなると、一層、生にしがみつくことで自身の宗教的な正しさを証明する人というのは少なからずいます。
「自殺」と「安楽死」をイコールで結びつけること自体は不謹慎なことですが、潜在的には「安楽死は自殺に似ている」とイメージしてしまうものです。
そのため、宗教的価値観から、いざとなると安楽死に対して異を唱えてしまうという人が出てくることが推察できます。
倫理上の問題
宗教と似たような感覚かもしれませんが、いわゆる「倫理上認めたくない」という人もいます。
倫理とは、すなわち「規範や秩序」のことを指します。
宗教的価値観というよりも、社会的通念などといった言葉のほうが近いですね。
一人の人生において、幼い頃からの教育によって個人の「倫理」が形成されていくのですが、やはりその中でも「自殺」はきわめてネガティブな言葉です。
更に言うと、安楽死自体はこ動物に対して行われてきましたが、それも「野良犬や野良猫の駆除」といったきわめてネガティブな行為として頭の中に植えつけれられています。
「安楽死=自殺」という考えに至らなかったとしても、安楽死そのものがネガティブであるという人が一定数存在すると考えられるのです。
そういった人達の倫理観において言えば、病に苦しむ人に対する安楽死をテレビの前では賛成していたとしても、いざ決断を迫られた時に、やはり反対してしまうものなのです。
幼少期の頃からの思想というものは、なかなか変えることはできません。
特に、成人以上の人の考え方をこれから変えるというのは、より難しくなります。
個人の倫理観を、言ってみれば変革させるために重要なのが詳細な情報です。
今現在、海外で人間に対する安楽死が始まったばかりです。
今後、安楽死が行われるにつれて良い点や悪い点というのが定まっていきます。
それらを吟味することによって、安楽死に対するイメージが変わっていき、倫理観も同様に変化していくのです。
個人の感情
個人の感情、特に安楽死を望むものの家族の感情というのは非常に大きいです。
病に苦しむ家族の顔を見るのはつらいですが、だからといって本人の「死の意志」を後押しできるのかというと、それもまた苦しいことだということは想像できます。
安楽死が認可されたとして、当然、本人がその申請書類などを書くことになるかと思います。
そして、その書類は法的にかなり強い効果の持つものになるでしょう。
そうなった時に、家族が反対しても執行されることになります。
いくら本人が死を望んでいるからといって、その家族がそれを許容できるかは別の話です。
事前に了承していたとしても、その直前になって「やめてほしい」と懇願してしまうのも人間の感情です。
こういった意見に対して「本人の勝手ではないか」と反論する人は多いです。
だからといって、それが「当たり前」になるのを想像すると、ゾッとするでしょう。
その個人の感情をどのようにして対処するのかが、安楽死を認可させる上では重要なポイントの1つではないかと思います。
今現在は、安楽死の議論はまだ始まったばかりなので、良い面だけが見えてしまいます。
ですが、議論が本格的になるにつれて、そういったマイナス面も見えてくることになるでしょう。
そうなった時に、安楽死に賛成を唱える人が減ってしまうでしょう。
安楽死と司法による殺人の類似点
安楽死と殺人、実はこの2つには類似する点があります。
それは、人の手が必要な死であるという点です。
殺人と比較するのはあまりにも酷いと思われるかもしれませんが、例えば「死刑」は国家が司法の下で行われる殺人といえます。
先日、新興宗教の信者や教祖らの死刑が執行され話題になったので、記憶にも新しいかと思います。
この死刑の方法ですが、日本では絞首刑によって行われます。死刑判決が出ても、すぐに執行されるわけではありません。
法務大臣が決裁書に判を押すことで初めて執行されます。
そのため死刑囚たちは、自分の独房に近づいてくる看守らの足音におびえながら、日々を暮らしているわけです。
そして、いざ執行となった際、死刑囚は自ら首を吊りに行くわけではありません。看守らによって首が縄にくくられます。
そして、看守がボタンを押すと床が抜け、首が絞められ死刑が終わるのです。
この時、もし看守一人がボタンを押しただけで床が抜けてしまうと、死刑囚を殺したのはその看守になります。
そうなると、精神的負担も大きいので、ボタンは3つ用意されています。そして、3人が同時にボタンを押すことで床が抜け、誰が押したボタンにより床が抜けたのか分からなくなるのです。
もし、日本で安楽死が認められた場合、死刑と同様のシステムが導入される可能性があります。
例えば、安楽死志望者に吸引用のマスクを取り付け、3人の医師がボタンを同時に押すことでガスが放出され、そのマスクを伝って志望者の体内に吸引されるといった形です。
あくまでも想像ではありますが、しかしすべての医師が「これは治療だ」と強い意志でもって安楽死を実行可能かというと、難しいと思います。
もし、それだけ意志の強い人間が行ったとしても、その回数を重ねるにつれて精神が磨耗し、その人の心は壊れてしまうでしょう。
安楽死が日本で実現した場合においては、死刑と同じシステムが導入されると考えられます。
・行政が認可することは可能なのか
もし、安楽死が導入された場合、個人の意志だけで実行されることはないでしょう。
まず、行政による許可が必要になります。
例えば、市役所に行って「〇年の〇月〇日に安楽死を希望します。」といった具合です。
もしかしたら、必要経費の一部が負担になったり、あるいは健康保険で3割だけ自己負担というような仕組みになるかもしれません。
しかし、日本国憲法を見てみると「生存権」というものがあるのです。
日本国憲法25条にある、「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」等のくだりです。
正直な話、死刑廃止派と存置派の議論においてすら、この憲法25条が争点になっているのが現状であるにも関わらず、果たして行政サービスとして人の死の決定が可能なのかというと、かなり難しいと言わざるを得ません。
「安楽死は治療の一種である」と語る人もいますが、人を死なせてしまう時点で治療と言えるのかと問われると、誰もが首を縦に振ることはできません。
一種の救済であると言われれば理解はできますが、その人の命を終わらせることが治療であるとは、全ての人は思えないのです。
つまり、安楽死そのものに賛成であったとしても、それに行政が介入し、行政サービスとして行われるということにおいては反対する人も出てくることが推察できるのです。
また、先述のように憲法の問題もあります。
憲法は、公権力ができることを明確化するためのルールであり、ツールです。
つまり、憲法が改正されない限り、行政主導で安楽死が実現するのはもはや不可能とも言えます。
そして、その憲法を改正するためには最終的には国民投票によって決定されます。
もし、誰かが安楽死を実現するために選挙戦に出て打ち勝ち、そして総理大臣にでもなったとしても、安楽死のために憲法改正の発議が行われて、国民投票が実施される可能性はきわめて低いです。
もし、その国民投票が反対票多数により実現しなかった場合、その政権は間違いなく倒れてしまいます。
そのため、行政により安楽死が行われるまでに至る道のりは極めて険しく、現在のところ行政が認可するという仕組みが実現するのは難しいと言えるのです。
・どのような場合に行われるべきなのか
安楽死がいったい、どのような場合で行われるのかを考えることも重要です。
先述のように、不治の病などで完治が見込めず、また延命治療も心身に大きな負担をきたすという場合には、実施されても良いと考える人は多いと思います。
「個人」が死を望む場合、言ってみれば希望者が自殺志願者である場合はどうでしょうか。
社会に馴染めない、人生に希望を見出せないなどといった、きわめてネガティブな精神状態に陥っている人間が死を望んだ場合、その救済として安楽死が実行されるべきなのかという議論が起こるのは、安楽死という考え方が生まれた以上は避けることができません。
死を望む意志を尊重すべきではないのかというものです。
こういった意見は、特に「発達障害」「心の病」を患った人が安楽死を望んでいる場合を想定した議論で見られます。
一般的には「発達障害や心の病であるなら、然るべき支援や処置をして、治療によって立ち向かうべき」という人が圧倒的に多いです。
しかし、発達障害は病気ではなく先天性脳機能障害、言うならば「生きにくさ」です。そして、心の病の多くは完治するのは非常に難しい「不治の病」です。
最初の「不治の病」のケースとして、当てはめるべきではないのかと言う人もいるのです。
こういった安楽死を実行する際の線引きもまた、課題の一つといえます。
・自ら安楽死を望んでいることを証明する方法
安楽死とは、希望者自身が望んで成立する死です。
安楽死を社会で当たり前のものとするためには「希望者自身が死を望んでいる」ことを証明する方法が必要になります。
これもまた、安楽死の実現を難しくするハードルの1つです。
方法として考えられるのが、例えば遺書のようなものです。
弁護士や行政書士、司法書士などが立ち会いの下で、安楽死を望む旨を記した遺書を作成し、更に所有する財産の処分などを書き記していくというものです。
今現在行われている遺書の作成と、ほとんど大きな違いはないように思えます。
しかし、実際には通常の遺書と安楽死を前提とした遺書とでは大きな違いがあります。
それは、通常の遺書の場合は「いずれ死ぬので事前に準備するもの」であり、一方で安楽死を前提とした遺書は「この日に死ぬから準備しておくもの」であるという点です。
前者の場合、記してから数年後かあるいは十年、二十年以上経ってはじめて意味のあるものになります。
後者は、その作成者の死の明確な日時が決まっていて、作成者自身が死を決定付けています
。
つまり、前者の場合は作成に関わった人間はあくまでも「遺書」のみに関わっているのであり、後者の場合は作成に関わった人間は遺書だけでなく「作成者の死」にも関わっていると言えるのです。
たとえ、お金で依頼された関係だったとしても、たとえば遺族の悲しむ顔を見ると「あの時自分は、止めるべきではなかったのか」と悔いてしまうものです。
実際に、つい最近も有名な保守派論客が自尊死を望んだものの、身体に障害があるためできず、長年の友人や後輩に頼み、事件化してしまったというケースもあります。
彼らは、自分の尊敬する人の願いを叶えるために実行したわけですが、その胸中には後悔の念が渦巻いていることは想像できます。
安楽死における希望者の証明も、他者によって始めて成立するという点があるからこそ、誰かに自分の死を背負ってもらう必要があるのは知っておくべきでしょう。
・犯罪に利用されることは無いのか
安楽死は、先述のような財産分与などと密接な関わりがあります。
そのため、安楽死を利用した犯罪というのも考えられます。
「後妻業」という言葉があります。
要するに、奥さんが他界したり熟年離婚をしてしまって一人身になった男性の財産を狙って付け入る女性のことを指します。
実際に、何人もの独身男性に取り入り、結果複数人の男性を殺害した上保険金や財産を取得したという事件がありました。
また、洗脳によって一種のコミュニティを形成し、財産どころか人間関係を思いのままにするという事件も北九州や尼崎で発生し、世を賑わせました。
こういった犯罪は、個人の思考回路を支配するという特徴があります。
これを利用して安楽死をさせた場合、かなり大きな事件になることは言うまでもありません。
犯罪に利用されないためにも、安楽死を実現させるには様々な方法を考慮する必要がありますが、こういった事に関しては日本に限らず「実際に起こってから考える」という考え方が世界的にも多いように思います。
実際に、安楽死を認めている国を見ても、そこまで細かく考えているわけではありません。
だからこそ、危険性が見えてしまうのです。
特に日本の場合、何か新しいことを始めるという話になったときには「これはどうすれば良いのか?」「ではこの場合は?」と尻込みしてしまう傾向があります。
安楽死の実現が難しい理由の1つでもあるでしょう。他の事であればじれったく感じてしまうものです。
しかし、安楽死は人の生死に関わることです。
人の命に関わることをスパッと決めてしまうというのは、不気味に感じる人もいるでしょう。
・あまりにも他者が関わりすぎる
そして、安楽死の実現が日本において難しいとされる最大の理由が、日本人の「死生観」にあります。
日本においては「死なば皆仏」という考え方があり、どんなに悪い人であっても死人を悪く言うことは咎められます。
そしてもう1つ、日本人特有の風習があります。
それは、「死」を「忌み嫌う」という点です。
どんなに良い人の死であったとしても、葬式の後は盛り塩をしたり自身に塩を振ったりします。
これは、死者との縁を切り、身を清めるための行為です。
日本では古くから死を畏れ、忌み嫌うという文化が育まれてきました。
そのため、葬式以外で直接的に他人の死と関わるというのは、もっとも避けたいところなのです。
ですが、安楽死は1人だけで完結する死ではありません。まず医師が絶対に必要になります。
そして、安楽死を実現するためには政治的な活動でもぎ取る必要もあります。また、その死を自身が望んでいることを証明するための人間も必要になってきます。
安楽死の最大のハードルは「その死が個人の行動でのみ完結するものではない」という点なのです。
たとえ多くの人が安楽死に賛成していたとしても、それを実現するために行動する人は少数です。
また、「誰かが安楽死希望者の死を背負う」という結果は変わりません。
もし、死に至るまでのプロセスのすべてが機械化できたとしても、結局のところ、仕組みを完成させるのは私達人間なのです。
その重みを背負うことが可能な人間が現れない限りは、ここ日本においては安楽死が実現するのは非常に難しいと言えます。
まとめ
今回は、安楽死について触れてきました。
重苦しく感じる話題ではありますが、今現在、世界中で安楽死の議論は行われています。
末期患者に行う最後の治療としての着眼点や、「死を望むのであれば安楽死でもって救済すべき」という考え方など様々あります。
しかし、人の安楽死における議論はまだ本格化しているとはいえない状況です。
なぜなら、今回書かせていただいたような細かなケースを推定して議論している場面を見ることはほとんどなく、主に最初に書いた宗教的価値観による議論ばかりが注目されているからです。
特に日本の場合は、宗教的価値観はその自体の文化と同化することによって成り立ってきた歴史があります。
例えば、日本の仏教僧も、結婚して伴侶がいたりすることが珍しくないのが良い例でしょう。
それと同じで、安楽死も宗教的価値観が文化と溶け合い許容されつつあるというのが現実です。
だからこそ、日本人の7割が安楽死そのものには賛成なのです。
しかし、議論の前提がその状況に追いついていないのです。
未だに宗教的価値観ばかりにとらわれ、「仕組みはどうすべきなのか」「憲法を改正するのか」など本質的な議論が始まってすらいません。
そのため、まだまだ日本で安楽死が認められるのは難しいのです。
しかし、逆に宗教的価値観の議論が決着しただけで実現してしまったら、それは恐ろしいことです。
先述のような犯罪に関する部分に触れず、更に仕組みも非常に大雑把なものになってしまったら、何かあった時には取り返しが付かなくなってしまうのです。
いち早く安楽死が実現している国の運用状況を見て、それを参考の上決めていくのが良いでしょう。